よなハック

【挑戦と変革に共に立ち向かう】徒然と書いてます。

自分の中で何かが変わっている

20180830

 

今日のハイライト。

自分の記録用。

 

 

起床後、祖母の家へ!祖母に、戦前の生活の話や、戦時中の話を聞く。戦争前は、どの家も家に豚を飼っていて、便は豚に食べさせていた。食べ物は全部芋だった。芋は蒸かしてカゴに入れていた。食べる時には芋にたかっているハエを払って食べていた。お肉を食べれるのはお盆と正月の年に2回だった。小学校に行って家から帰ってきたら、やぎに食べさせるための草刈りをするのが仕事だった。小学校ではヒトラーチャーチルの写真を竹やりで「えい!」という掛け声とともに突くことを習っていた。教育というのは敵の写真を竹やりで突くものだった。校長先生が天皇のなにかに関係する巻物を持ってきてお供えする間、小学生は鼻を垂らしながら校庭に並んでいた。学童疎開はお金持ちの子どもが行くことができた。戦争が始まってからは、祖母たちが住んでいた地域はみんな同じ防空壕に入っていた。もう米軍がそこまで来ているというので防空壕から出ることになった。年寄やけが人など、防空壕から出て逃げることができない人たちは、みんなで集まって、集団自決した。その際、円形で座っていて、内側に座っていた人たちは死んで、外側にいる人たちが生き残った。それが近所の○○さんや○○さんたち。戦争中は、海が米軍の船で埋め尽くされて真っ黒だった。常に艦砲射撃が降り注いで、家の周りでずっと太鼓を叩いているような音が響いていた。防空壕に入ったら、奥に女子供が、入口側に男が座ることになっていた。防空壕の入り口に爆弾が落ちたら、入口に座っていた男の人たちが死んだ。とても怖かった。米軍が南下するに連れて、日本軍に防空壕を追い出されていった。生活品も置いていくように言われた。泣き止まない赤ちゃんがいたら防空壕を追い出されていた。死体を飛び越えながら南部へ逃げた。誰かのおうちの防空壕に避難しているところを、米軍に出てこいと言われて捕虜になった。アメリカ軍は食べ物をたくさんくれた。

 

などなど。

 

その後、浦添市立図書館へ。「沖縄学」というコーナーがあり、そこで様々な沖縄関連の書籍を見た。なぜ沖縄にこれだけ基地があるのか、戦後の沖縄ではどのような問題があったのか、沖縄はどのようにここまでの生活を取り戻してきたのか、なぜ沖縄の振興予算だけが基地と絡めて語られるのか、沖縄の文化はどのように発展してきたのか、どのような特徴を持っているのか、なぜなぜなぜ。

 

 

知らないことだらけだということがわかった。

 

その後はれーいと海。

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うーとーとーTシャツ、いい感じです!

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その後、沖縄三田会参加。

沖縄出身の先輩方といろいろお話でき、大変勉強になりました。

やってやるぞ沖縄2018。

 

その後、残波岬で星を見る。

 

 

 

沖縄の豊かな自然、温かい人々、独自に発展してきた歴史と、祖母が子ども時代の話や戦争の話。いろいろなことが聞けました。

 

時間がなくて言葉で整理できてないけど、自分の中で何かが変わっている気がする。

 

沖縄愛が深まっているし、やはり何かやりたいしやらねば、という気持ちになる。